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■大山農業のカミサマ
大山の基本設計をした人は矢幡治美です。
村長と農協組合長を兼ねて16年、農協組合長だけだと33年の長きにわたり、”大山の父”と呼ばれた人です。1993年に81歳で亡くなりましたから、今では”大山のカミサマ”になりつつあります。
大山村の農協組合長を引き受けた背景には、人生の師であった金光教会日田教会の堀尾保治協会長の言葉があったのかもしれません。自分の家族を大切に思う人は多いが、それを超えてさらに周囲の人びと、ひいては村ぜんたいの人びとの幸福を願うのが真の信心だ、と堀尾保治教会長は語っています。
こうして矢幡治美は一人の資産家から、村のために人生を賭ける公人となったわけです。 |
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■希望を説く
1950年代は日本中が敗戦後の貧しい時代でしたが、とりわけ山間の大山は農業収入が大分県最下位。もともと土地が少ないために明治大正時代から山林労働や出稼ぎの現金収入で食べてきた村でした。そうやって農業収入が少ない上に戦後の経済的逼迫で現金収入の道まで断たれたのですから貧しさの極みと言えます。
栄養失調で青ざめ疲れきっている人びと。結核患者が多い、けわしい地形での重労働で足腰を傷めた老人が多い。そんな人たちに何を語っても、言葉が空しく吸い込まれていく気がしたにちがいありません。それでも矢幡治美は役場と農協の幹部ともども毎晩毎晩、各集落をまわって、あなたがたは農協に何を期待するかと尋ね、また、私たちの将来ヴィジョンはこうだと説いて歩きました。組合長になってからには後に退けない。ピンと張り詰めた緊張感が漂っていました。 |
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■コスト計算
「 これから先の時代、コスト計算ができれば農業は必ず儲かる」と、かつて農業で全国表彰されたことのある大分メンテナンスの社長、谷口来さんは断言します。「農家が稼げないのはコスト計算ができないからだ」と。大山の設計もこのことを証明していると言えます。矢幡治美は造り酒屋の後継ぎであり、製茶などの事業を手がけてきたバリバリの経営者でした。おそらく戦後の日本で最初に、農業にコスト計算を導入した人物だったのではないでしょうかと思います。
■信念
1962年(昭和37年)山間の地に最も適した作目として大山はウメとクリを導入しました。それも、なまじの決意ではなかったのです。何年もかけて周知に調査し、村の人たちには一軒ずつ口コミの情報を流し、各団体ごとに研修に出てコンセンサスを取り付けた結果でした。 |
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■読み
大分県の山の中に居ながら、大山の人たちは30年後の日本の食生活を予想していたフシがあります。それは本やテレビによる情報ではなく、ヤハタハルミというセンサーが1959年(昭和34年)という早い時期から何度もアメリカへ行ったせいだといえます。その頃は一般の人がアメリカへ行く機会などほとんどありませんでしたが、日田市の大河原病院院長が同級生だった縁で、矢幡治美は病院の事務長に化けたわけです。かくして世界医師会があるたびに医師団に加わり、欧米を貪るようにしさつして回りました。モノがあふれ、生活がゆたかだけれど、公害やストレスの問題を抱えているアメリカの都市。高齢化がはじまり、生産性が落ちてみんなが高い文化を楽しんでいるヨーロッパのまち。日本がいつかたどっていく道だろうと、矢幡治美は鋭く読んでいました。 |
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