平成30年組合長エッセイ9月号
素人集団
先月号で百足農法の由来を紹介しました。そして最終文で「梅や栗は経済連の取り扱い品目にはありません。あなた達は国や県の指導に従わず勝手に栽培したものですから自分たちで売り先を探して売りなさい」と突き放されたのです。そのことが後後大きな力と幸運となってきます。こう結びました。
今日、大山の農産品は直接、生活者(以前は消費者と表現)や小売店、旅館やホテル、レストラン、生協、お土産品店、食品会社、青果卸市場等へとありとあらゆる多岐の業界に販売しています。しかし当初は販売先もその流通の仕組みも解らず、まごつきほんとうに素人集団の手探り作業でした。今みたいに運送業者にも頼めず自分たち職員が交替で二トン貨物トラックを運転し熊本市、福岡市、北九州市、長崎市、大分市へと、その日集めた農産物を夕方より深夜にかけ青果市場へと輸送していました。当時は高速道路もなく、一般道を走行するのですが道路幅は狭く、整備もされておらず大変でした。なによりも苦労したのは取引先探しです。有利に高く買っていただく取引先をどう選択していくかです。買ってもらうというのは、納品したら終わりではありません。納品した品物の代金をいただいて、そこではじめて商取引が完了するのです。代金が回収できなければ無償提供したことになり、そこで損失が発生し損害となります。直接販売していくということはこのように大きなリスク(損害を受ける・危険)を背負わなければなりません。また反面、相手様の気持ちや要望が聞けますし、品物を理解していただければ上乗せの価格利益も得ることが可能です。おもしろいエピソード(本筋からそれた話です)があります。昭和46年秋のことでした。前日に集荷した生栗を二トン貨物トラックに満載して夕方、大山を出発し長崎市の青果市場まで片道二五〇キロメートル約四時間走って深夜に到着。市場の競り売場に生栗を下して、規格別に整然と並べて市場荷受担当者の荷受伝票をもらって、またもと来た道を走り翌日の朝帰ってきました。農協に着くと故治美組合長とバッタリと会い挨拶すると、何所に行っていたかと問われたので「昨夕より長崎の市場に栗を運び、いま帰ってきたところです」と応えると、「何を積んで帰ってきたか」と更に問われるので、「栗を出荷に行ったので帰りの荷台は空です」と言ったところ「お前はバカか」と叱られたのです。私は一晩かけて長崎市まで出荷に行ってきたので労いの言葉があるものと期待したのでしたが、むしろ正反対のお叱りでした。その理由は、「農家・組合員のために、お役に立つよう帰り荷に魚ぐらい仕入れて積んで帰り安く提供できたら、どれだけ皆から喜ばれ、農家・組合員家族の蛋白源が補ぎなわれ健康増進に役立つかを考えてみなさい」というものでした。早速その次の日も自ら希望して長崎市まで走りました。幸いに青果市場と魚市場が隣接していましたので青果市場の幹部の方にお会いし事情を説明して魚市場の方を紹介していただきました。そして生鮮魚の仕入れ交渉にいったのでした。魚市場の中は今まであまり見たこともなく驚きの連続です。魚市場の方もお隣の青果市場幹部の紹介であったためか、また大分県の山の中から出てきた農家の若者に同情したのか、ほんとうに親切丁寧に対応していただきました。愈愈、初体験の鮮魚の仕入れがはじまります。
次号につづく

青果卸売市場の競り売り現場