土からの医療
「あの土光敏夫さん」と聞くと、大方の人は知っていると思います。石川島播磨重工業(株)の会社経営を社長として再建し、造船世界一として名を馳せました。次に68歳で東京芝浦電気(現在の東芝)の社長に請われる形で就任し、業績が悪化していた同社の再建に取り組み、次々と社内の組織改革を打ち出し、その成果により業績は急速に回復したのです。そして昭和49年には78歳で財界総理といわれる日本経済団体連合会の第四代会長に就任しています。三期六年の経団連会長を務めた後、当時の中曽根康弘行政管理庁長官、そして政府から強く望まれ、昭和56年三月に発足した第二臨時行政調査会会長を委嘱されました。その二年間に及ぶ集中審議の模様は広く世間の注目を集め、「国鉄改革」などの成果と「増税なき財政再建」を理念とする最終答申を提出して、その大任を終えています。昭和61年には89歳で民間人として初の勲一等旭日桐花大綬章を皇居に赴き、天皇陛下より直に賜っています。そんな人生の栄達を極めた土光さんですが、ご自分の生活は生涯を通して清貧を貫き、ゴルフや夜の宴会を好まず、休日は早朝より庭の畑仕事に汗を流していたといいます。木造の小さな家に奥様と暮らし、メザシをおかずとする食卓風景がNHKのテレビ番組で紹介されました。第二臨調会長の清貧な暮らしは、「メザシの土光さん」として話題を集め、土光さんの推し進めていた行政改革が、国民運動的な拡がりとなっていきました。土光さんの生家は農家でした。お母さんは70歳を越えた晩年に、家族皆の反対を推しきり、私財をなげうって橘学苑という小さな女学校を創設しています。土光さんは、お母さんの急逝後に自ら理事長、校長に就任して、生涯質素な生活を続けながら、自身の収入の大半を学苑に寄付しています。その土光さんが昭和55年頃だと思いますが熊本県菊池市にある菊池養生園園長の竹熊宜孝先生の著書「土からの医療」という本を読まれ、書かれている本の内容に、「私もまったく同じ考えだ。今の人は健康について医者など他にばかり頼るが、自分の健康は本来自分で守らなくてはだめだ。本当に生命を大切にする環境作りは自分たちの手でやらなければならない。竹熊先生の理念を大いに広めてもらいたい。私も全面的に応援する。」と深く感動して、ついては横浜市にある母の設立した学苑で先生、生徒を前に講演をしてくれと要請され、竹熊先生は、その学苑まで行って講演をしています。その竹熊先生から二月のはじめに出版記念パーティーの案内状が届きました。
「今までの足跡を集大成した写真集、竹熊宜孝『熊さんの宝箱』を出版します。83歳を迎え、人生の総まとめにふさわしい写真集になったので、桜の花開く3月24日(土)に出版記念パーティーを開きます」という内容でした。今迄、私個人としても、そして大山の人たちにとっても多くのご教示を賜りお世話になっている先生です。少しでも恩返しができればと思い、若い人たちと十名でお祝いに駆け付けたのです。
つづく

出席者に今までの思いを語る竹熊先生