雨ニモマケズ
あれほど暑かった夏も終り、気がつけば田んぼには黄金色に実った稲穂が頭を垂れています。畑には古より常食として栽培されてきた、米、麦、粟、豆、黍などの五穀が、そして野山は美しく錦秋に色彩られ、柿や栗、梨などの果実が撓わに実り色づきはじめました。正に全ての作物が豊かに稔る「豊穣の季節」を迎えています。この時期になりますと町内の各集落で昔の風習にそった秋祭りが行なわれます。それぞれの集落の神社を村人全員が参加して境内を清掃します。そして神社本殿の正面入口や、境内のそれぞれの鳥居の下には昔から伝えられてきた「しめ縄」を村の人たちが上手に美しく作って飾り付けます。その「しめ縄」について農学校の先生であった宮沢賢治は、生徒たちに次のように教えています。宮沢賢治といって思い浮かべるのは「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテヰル 一日二玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリソシテワスレズ・・・・(以下割愛)」という詩ではないでしょうか。
彼は岩手県で生まれ育った有名な詩人であり岩手県花巻農学校で化学、土壌学、英語などを教えた教師でもありました。この「雨ニモマケズ」は賢治が亡くなる二年前、一九三一年(昭和六年)に病床で手帖に鉛筆でしたためたといわれています。宮沢賢治が花巻農学校の教師となったのが二〇代の一九二一年(大正一〇年)でした。それから六年間ほど教師を勤め退職しています。その間に「銀河鉄道」や「風の又三郎」を書いています。賢治先生は生徒に向かい「しめ縄」について話しました。「細い藁を二、三本下げる風習があるでしょう。あれはね、君たちなぜだか解りますか。しめ縄の本体は雲です。垂らした教本の藁は雨を表します。」と彼は続ける。なんだか面白そうだなと聞き入る10代半ばの生徒たちに「そして白い紙の御幣は稲妻を表しています。ではなぜ稲妻なのでしょう。その一、害虫を殺す、その二、稲妻は空気中のチッソを分解して、雨と一緒に地中に徐々に染み込ませます。」雷がよく落ちる鉄塔近くの田畑に話を向けて「そこは以前からなぜか肥料をやらなくても作物がよく育ったのです。どうです、その意味が解ったでしょう。」私もこの話を「畑山博著の教師宮沢賢治のしごと」の中で興味深く読みました。そして先生の授業はしばしば脱線したようです。休みの教師の代りを務めたときは、「実は私『風の又三郎』というのを書いたから」と授業はせず、自作の昔話を朗読し、また時には学校の外に生徒を連れ出して風と友だちになるという授業もあったとか。そんな賢治は教室で生徒が守るべきルールを三つ言ったという。「先生の話を一生懸命聞いてくれ」「教科書は開かなくていい」「頭で覚えるのではなく身体全体で覚えること」。今日でも「雨ニモマケズ」は賢治自身が体感していた悲しみや苦しみが集約され、人々の心の支えや癒しとなり語り継がれています。この時代の生徒たちは後に皆さん一流の人物に育っていったと伝えられています。
既成概念にとらわれず、独自の教育概念で生徒に接した宮沢賢治は素晴らしい人格者であり教育者であったと思います。
秋の夜長、虫の声を聞きながら、昔、親しんだ本を開いてみるのも心の洗たくになるのではないでしょうか。

集落の鳥居に飾られたしめ縄