物ではなく心を売りなさい
大山町農協が中国蘇州市呉県を始めて訪問したのが一九八三年(昭和58年)の三月二日でした。その前年に農協青壮年部主催の講演会に講師として招いたのが岡崎嘉平太先生でした。講演会が終ったあとに先生を囲んでの懇親会を開催いたしました。その懇親会の席で先生は、「大山は梅栗をはじめ、いろいろな果樹を栽培しているが、私の知っている中国蘇州には太湖という滋賀県にある琵琶湖の三倍ぐらいの広さの風光明媚な湖があり、その湖に面したところに東山鎮という村があります。その村では、大山と同じように梅や栗や銀杏、みかんなどを栽培しているので交流をしてみませんか。」との提案をいただきました。このことについては、平成23年三月号のエッセイ「香雲一片花如海」で紹介いたしました。先生はその講演の折に青壮年に次のような言葉を色紙に揮筆しています。
「信はたていと、愛はよこ糸、織りなせ人の世を美しく」
「和顔愛語」
の二つの言葉です。
そしてこの年から、呉県(現在は呉中区)人民政府と大山町農協との深い友好交流がはじまりました。大山からは、三十五団体約七百名が蘇州市呉県を訪問し、呉県からは、人民政府の要人をはじめ長期滞在研修生(約半年間)も含め、十五団体八十名が大山町を訪れています。この中国との交流については、次の機会に何回かに分けて書かせていただきます。
先のエッセイで「(株)ヨシケイ浜松の名誉会長渡辺虎雄氏」と京都の「菓匠、叶匠寿庵 創業者 芝田清次氏」とのお付合いを四回に分けて書きましたが、一九八八年(昭和63年)三月九日より十三日まで四泊五日で渡辺虎雄氏を団長とする日本全国から集まった、ヨシケイグル―プの社長さん方、十八名を蘇州を中心に無錫・上海と案内いたしました。どうしてそのようになったかと振り返ってみますと、渡辺社長(当時)にお会いする度に、大山農協と蘇州呉県との友好交流の話をしていたからだと思います。と言いますのも私が二十歳後半の頃に大山の農産物、加工品の販売セールスの辞令が出ましたがその時、治美名誉組合長から次のように教わったのです。
「お前みたいな田舎者が、初めての会社やお店に物売りに訪問しても、相手様は諂ってもくれんだろう。」と言うのです。「それではどうすれば良いのですか。」と問うと、「先ず履いている革靴はいつも綺麗に磨いておきなさい。着ていくスーツは、派手な色ではいけません。カッタシャツもネクタイも同じことです。お客様に質朴で清潔感を与えることが大事です。」しかし農協の中では、職員は作業着で仕事をしてきています。もちろん私もそうでした。町外(都市)にセールスに出る職員は、そういう服装ではいけないからと言って一年に一着、背広(スーツ)を支給していただきました。そして「下手糞な大山弁での物売りでは、相手にしてくれないだろう。言葉は大山弁でよいので、品物を売るのではなく、大山の心を売ってきなさい。」と言われたのです。「そのむずかしい大山の心とは何ですか。」と問うと、「大山で暮らしている農家の人々の日常生活や、モノづくりへのこだわり。自分たちの追っている夢を語ってこい。」と教えられたのです。
ですから多分、私は大山農協のセールスマンとして大山で暮らしている人たちの営農や生活、未来への夢、また中国蘇州への夢、そして世界の国々との交流の夢を語っていたから渡辺社長も行ってみたくなったのだと思います。
次号につづく

潟シケイの訪中団 蘇州虎丘にて