和菓子のソニー 「叶匠寿庵」
私が京都の菓匠、叶匠寿庵と出会えたのも、先月号でお話した故渡辺虎雄氏との御縁からでした。振り返ってみれば、故渡辺虎雄(株)ヨシケイ浜松名誉会長に初めてお会いしたのは昭和六十二年の春でした。
渡辺社長(当時)が浜松商工会議所の方々を率いて湯布院を視察し、大山町に来られた時のことです。その夜御一行は、日田市隈町のホテルに宿泊されました。当時、大山町役場の産業課長の職にあった江田一美氏と私は、その夜の夕食会に招かれました。そこで懇談をしたのが初めての出会いです。
懇談の中で私は、渡辺社長に次のようなことを語ったことを覚えています。
「私は、この十五年間、農協の渉外担当として県内外のお店をまわり、大山で生産された農産物や加工食品を紹介し販売をしてきました。そんな体験の中で、自分で作った物を自分のお店で売っているところは利益がたくさんあり、繁盛していることが解りました。特にお菓子を作って自分のお店で売っているところは尚更のようです。」ちょうどこの頃、大山町農協では、新開食品加工場を総事業費二億円で増改築と、新たな機械の導入などの計画をすすめているところでした。そしてその計画の中には、無謀なことと思われるかもしれませんが、お菓子の製造ラインも組み込まれていたのです。
そんな話の中で私が特に興味と関心のあった和菓子店、京都の菓匠・叶匠寿庵のことも話をしたのです。後日談ではありますが、渡辺社長は、「あんな田舎の農協職員が叶匠寿庵の話をするなど思いもしなかった」と周囲に語られていたとのことです。
叶匠寿庵は、「和菓子のソニー」と称賛され、大企業の経営者から、労働組合の幹部までが叶匠寿庵の魅力の擒となり、その経営の在り方、業務の進め方等その何もを学びに訪れていました。このように様々な角度から多くの分野で注目を集めていたのです。その当時、全国には八十一万ヶ所のお菓子売場があるといわれていました。そのような環境の中、ひとつの店舗の年間売上高で、上位一番から五番までを叶匠寿庵のお店が占めていたのです。一番は大阪のデパート阪急梅田店の十五億円です。続いて東京の西武池袋店、高島屋日本橋店が共に十二億円、そして高島屋横浜店と、本社と工場のある滋賀県大津市の寿長生の郷店の五店舗です。常にお客様が長蛇の列で待つ大盛況のお店ばかりでした。
和菓子業界の多くは、先祖代々の技を受け継ぎ守り、その信頼と信用による暖簾の老舗が犇くという競争の中にあります。しかし、叶匠寿庵は創業者の芝田清次氏が昭和三十三年、三十九歳の時に大津市役所職員を退職して奥さんと二人で始めた新参の菓子づくりでした。そのような厳しい環境の中で、ずぶな素人の菓子づくりがわずか三十年で全国から注目を集めるまでに急成長を遂げてきたのです。そんな私の熱い話を聞いていた渡辺社長から思いがけない言葉を頂いたのです。「それならば私が芝田社長と懇意にしているので連れて行って引き合わせてあげましょう。あの寿長生の郷、六万七千坪の土地は僕がお世話したのだから」と。思いがけない驚きの提案でした。もちろん私は二つ返事でお願いしたのはいうまでもありません。
それから厚顔も顧みず、渡辺社長と連絡を取りながら、その年の十一月十七日、渡辺社長は浜松より京都へ、私は、江田一美氏を誘い新幹線で京都へ向かいました。そして京都駅で合流して大津市大石龍門町の寿長生の郷へと向ったのです。
続く

寿長生の郷の本社と菓子工場
菓子工場とは思われない瓦屋根の数寄屋造り