町民憩いの家 喜運荘 Ⅱ
十月号エッセイの続きです。共済友の会役員は、数ある物件の中から何故「喜運荘」を選んだのか、その理由は先ず建物がしっかりとしていたということでした。場所も鉄輪温泉街の端の静かなところに位置しています。屋敷面積も156坪あります。その中に日本庭園が造られ池には鯉が泳いでいます。建物は瓦葺きの数寄屋づくりの二階建て67坪。トイレも屋内に三カ所に分れてあります。その建物に使用している木材等の材質はひじょうに高級なものでありました。そしてその屋敷の中には地下より自噴する温泉が噴き出しています。
その自噴の温泉を自由に再掘削できる鉱泉権も付いています。蜜柑の樹は植えられていませんでしたが、代りに24時間いつでも入浴できる温泉風呂が付いています。二階の部屋からは海も眺められます。このような理由と条件で共済友の会役員による選定会議は喜運荘を「町民憩いの家」として決定したのでした。それから首藤家との譲渡の売買交渉がはじまり、お互い納得のできる価格等の条件が整い所有権が大山町農協に移ったのです。
その頃、故治美組合長は、業務が終ると私たち職員を集め、大好物のスキヤキ鍋をつくらせ、車座になり皆で鍋を突き、お酒を飲み、座談・教談・放談をはじめます。そこで語っていたのは、百足(ムカデ)農法や高次元農業、メンタル農業、情報農業といったものでした。更に月収農家づくりから農収壱千万円の週休三日制農業。そして余暇を利用した文化活動の提唱です。そのために農協は地域で何をすべきか考えて見ようと言うのです。これらについては後日別途に詳しく報告します。
当時の組合長の残した文章には、次のように書かれています。「昭和57年の農村及び農民政策の動向を分析してみますと、二極分化の様相を呈してきたように思えてなりません。一つは、基盤の整備や施設の拡大方策を通してのムラ興しである。一つは、地域住民の所得追求に重点をおいての農村振興であります。広大な耕地を有するところでは、前項を妥当とするが、狭小な大山のような農山村に於いては、後者に望みをかけるものでありましょう。吾が大山町農協では、単なる所得の追求だけでなく、更に余暇を求めて、農民の教養、娯楽、文化生活の向上を追求していかなければなりません。」そして「町民憩の家、喜運荘」を譲り受けたとき、「農村は民族の母といわれます。愛情で生かす農業、愛情に生きる週休三日の生活を、農村大山は求めています。憩の家は私たちに輝かしい光を与えてくれます。みんなの別荘、持ち家です。いつまでも喜びの泉でありますよう愛撫して下さい。」とも書き残しています。
「喜運荘」という別荘の名称は所有していた、首藤篤会長の奥様が字画等運勢を占ったうえで非常に幸運を呼び込む恵まれた名と言うことで付けられたと聞き、そのまま利用させていただいています。
「喜運荘」は組合員、町民家族の余暇活動の一環として順番待ちが出るほど利用されました。また、取引先や外国のお客様を迎えて情報交換、交流の場として迎賓館的な役割もしていました。子供の夏休みや連休ともなると各種スポーツの交流試合の宿舎としても大いに利用されてきました。
あれから35年今一度、原点に戻り「喜運荘」の新たな再利用を考えてみましょう。

喜運荘の居間でくつろぐ上野地区のご家族の方々