| 『西村鶴夫氏と大山』
今も昔も販売ほど難しいものはない。
昭和41年、梅の初収穫が始まり、梅生産部会の役員の方々が手分けして九州各地の市場にお願いの挨拶に出向いた。
熊本方面へ行った役員は、4社が合併して出来た熊本大同青果に最初訪問したが、担当者は産地のブランドもない大山梅を全く問題にしなかったという。次いで隣の個人市場、西村青果を訪れた。担当者は勿論の事、西村社長も対応してくださり「今後、梅の需要は必ず伸びます、大山の梅をしっかり売らせて下さい」と言われた。その後、大山の梅を始め、大山で生産される多くの農産物を有利販売して頂き、今日まで深い信頼関係で取引頂いている。
取引を始めた頃、20億円位の市場規模であったのが、今や150億円の大市場へと成長した。昭和48年第一次石油ショックの折、父
治美から、この様な経済の大変化の時、決して投資をしてはならない。ガソリン代も60円から100円にもなるから、車を減らし大型車から軽自動車の燃費効率の良い車に代えるべきだという。第一次石油ショックをどう受け止めたら良いか判断に苦しむ私は、熊本の西村青果の社長を訪ねた。50代後半の脂の乗りきった西村鶴夫社長は、33歳の若造の私を割烹料理店に御案内頂き、丁重に扱って頂いた。ガソリン代が急騰する中、車を減らし縮小経営をすべきだという考えに、彼の意見はこうだった「私一人だけガソリン代が高くなるわけではない、日本国民全てが一緒です。石油ショックは、一次的な現象です。殆どの同業者は、縮小経営をするでしょう、私はあくまで一次的現象と思っていますから、この際車を増車して来るべき時に備えます。」と説明された。一般大衆とは違う、この発想に痛く同感した。そして、これを契機に、大山のエノキ産地が大きく動き始めた。
又、昭和51年、大山町と姉妹友好関係にあるイスラエル国を代表して、駐イスラエル大使 ラマテイ御夫妻が大山を訪問された。
接待出来る場所と経済力のない大山町農協は、西村鶴夫社長にお願いして阿蘇山の麓、西原村にあった別荘(現在、東海大学 宇宙研究所)で、最高のもてなしをして頂いた。
熊本で最も誉れ高い大先生が、茶の湯でもてなし、羽織袴で正装した西村社長は、誠意あふれる歓迎の御挨拶をしたのが強く印象に残っている。実直、誠実で人間味あふれた西村社長は、中国四千年の漢詩に明るく、手帳に控えた名文を朗朗と吟じその意味を解析してくれた。又、その人柄で社業も発展し、娘婿の米原征旗氏は、野村守氏と大の親友で、大山町農協の販売の礎を築いてくれた方であった。
時は移ろい、世は代わり、今は昔、西村青果も西九州青果と名前を改め、他人の経営となってしまった。
私に幾度となく有意義な人生訓を語ってくれた西村鶴夫大先輩は、今年1月8日に91歳の天寿を全うされた。西村鶴夫氏、米原氏、野村氏も鬼籍に入られた。
ただただ、御冥福を祈るばかりである。 |