| 『宮崎康平氏と大山』
最近やたらと人生で出会った良き師の言葉を思い出す。
一九八〇年三月十六日、島原在住の古代史研究家、宮崎康平氏(当時六十三歳)の突然の訃報を新聞で知り、残念で仕方なかった。二日後の十八日、矢羽田参事と自宅を訪問する手はずになっていた。三十年前、鎌手小学校の育友会長の時、講演の依頼に自宅に伺ってから、その後親しく御交際頂き、自宅に泊めてくれた事も二度程あった。
彼は盲目の作家だが、何事にも好奇心旺盛で、弁がたち、理路整然とした話は私の心を揺さぶった。彼の偉業は数限りない。早稲田大学文学部を卒業した彼は、級友に森繁久彌氏がいて、芸能界にも富司純子や森光子等きら星の如くその交際の広さは驚くばかりだった。「名曲、島原の子守唄」は、彼の作詞作曲で古関裕而氏の編曲だ。この曲は、森繁久彌氏が歌って大ヒットした。又、城山三郎氏の盲人重役は彼の半生をもとにして書かれたものである。シンガーソングライターのさだまさしを世に出したのも、宮崎氏だった。彼の死後、さだまさしは島原駅前で康平氏を偲んでチャリティー追悼コンサートを開いた。
一九五七年七月、折から襲った島原大水害で、当時島原鉄道の重役だった彼は、あまりの被害の甚大さに復興をあきらめた方々に「君達は目が見えすぎる、周囲全体の風景が見えるから復興は無理だと言うが、鉄道は線路の幅だけ工事すれば良い」と説得して復興を成し遂げた話をしてくれた。又、当時大流行のラジオドラマ「君の名は」の作者、菊田一夫氏に直接面会し、四国に決まっていたストーリーを変更してもらい、雲仙観光のため「真知子」を雲仙に連れて来たのも彼の情熱だった。今も雲仙に「真智子岩」が観光の名所として在する。
島原鉄道の大復興で苦労した彼は、眼底網膜炎が悪化し、遂に失明した。奥様にも去られ、二度目の奥様として才女、和子婦人を迎えた。失明した彼は、鉄道復興の時出土した古代の遺物に興味を抱き、九州各地はもとより朝鮮半島まで調査をしたという。そして「まぼろしの邪馬台国」を発表し、日本中に邪馬台国論争を巻き起こした。一九六七年には「第一回吉川英治文学賞」を受賞した。
農業にも詳しく、約千坪のガラスハウスを建設し、目の見えない彼がハウス内の果樹や草木の一本一本を克明に説明してくれたのには驚いた。
李の種は最高の抗癌効果がある。最も美味しい李の作り方を知っているか、教えてやろう、李はバラ科だろう、「山椒の木に接ぎ木しろ」と教わったが、私は未だ実行していない。
農業は化学肥料では駄目だ、堆肥主体でやれ、無農薬で生産する事を追究しなさい、と教わった。
事ある毎に彼の言葉をかみしめる今日この頃である。 |